アコーディオンはなぜダサい?<アメリカ編>
2016年現在、アコーディオンは一種、オシャレなかっこいい楽器という立ち位置を獲得しつつある。まあ、まだまだマイナー楽器ではあるものの、自信を持って自分の音楽を切り開き、表現する若い人が増えてきているように思う。
日本においては、cobaさんの尽力によるところが本当に大きいと思うのだが、さて、ではなぜ、かつてアコーディオンはダサいとされていたのだろうか?
これが日本だけではなく、海外でも一様にダサい楽器と思われていたようなのである。
アコーディオンはピアノ、ギターと並んで、国籍不明のグローバル楽器なのに、ピアノがダサいとかギターがダサいとかいう話は、寡聞にして聞いたことがない。
なぜ、アコーディオンだけが、どんな国でももれなくダサいとされていたのか。
そこにはそれぞれ、違う事情がありそうな気がして、ちょっと考えてみた。
(あ、単に私の考察なので、真偽のほどは定かではないです。)
というわけで、アメリカ編。
アメリカにアコーディオンを持ちこんだのは移民といわれるが、アメリカへの初期の移民の中心だったのは、のちにWASPと呼ばれるアングロサクソン系でプロテスタントのイギリス人。彼らはアメリカ建国の礎を築き、国の中流~上流階級を成す人々であるが、移民したのは17世紀(1600年代)で、アコーディオンの発明は1822年。その時期よりぜんぜん後なので、アコーディオンは持って行きようがない。
(1700年代後半にピアノは持って行ったらしい。すでにクラシックのコンサート楽器としての存在を確立していた。)
その後、19世紀に入ってからアイルランド、北欧からの移民、20世紀にかけてポーランド、ロシアなどの東欧・イタリアなど南欧、そしてユダヤ人の移民が増加。時期的に、この辺りの移民の人たちがアコーディオンを持ってアメリカに行ったのであろう。
すでに国の上の方はWASPで固められていたので、後発移民は職人や人夫、使用人など肉体を使う仕事や小さな商いに従事することになる。
この時代のことを詳しく描いたのが、E・アニー・プルーの小説「アコーディオンの罪」。
イタリアから移民としてやってきたアコーディオン職人に家を貸す大家が語る話の中に、こんなセリフが出てくる。アメリカで生まれたシチリア移民の血を引く成り上がり、今は上流階級で政治的にも重要人物となったアーキヴィという男の話題である。
「しかし、やつにアコーディオンの演奏はしない方がいい。やつは音楽については洗練された趣味を持っていて、コンサートやオペラを好むんだ。」
19世紀のアメリカでは、オペラは富裕層の趣味だったので、これだけで当時のアコーディオン音楽に対しての見方がうかがわれる。
階級として「下流のもの」だったということだろう。
先発移民はいうに及ばず、後発移民でもその階級からのし上がり、アッパークラスの住民となった者は、忌むべき記憶として封印し、自己の過去を否定するあまりに忌み嫌う
実際、先発移民による後発移民への蔑視とか差別、暴力などはすさまじかったようで、「アコーディオンの罪」では数々のエピソードがつぶさにリアルに語られ、血生臭さと汚物臭さに私は何度もページを閉じ、比喩の多い文体の読みにくさも相まって、結局読み終わるまで1年以上かかってしまった・・・。
この物語の中でアコーディオンが鳴らされる場所は穴倉のような酒場であったり、移民船の甲板の上であったり、何にしても底辺の人々の底辺の場所ばかり。そして、ハッピーな雰囲気であったことはほとんどなくて、何かギラギラギトギトした生命そのもの、血と汗にまみれた人間そのものが生々しく躍動する様に、当てられてクラクラ。
サブタイトルに「アコーディオン地獄めぐり」とつけたいくらいだ。
(アコーディオンとあるだけで、ほのぼのしたハートフルな話を期待してしまうのは、私が日本人だからかもなあ。日本人とアコーディオンの関わりというのも、独特のものがあると思う。それはまた、別稿で。)
時代が進んで、移民2世、3世になると単に「おじいちゃんが弾いてる楽器」という位置付けになり、それが理由で「古くてダサい」ということになっていったかもしれないけど、根底にはやはり「下流の楽器」「エスタブリッシュメントのものではない楽器」というのがあるのでは、と思う。
まあ、そんなこんなで、アメリカで「アコーディオン、ダサい」って思われているのは間違いではないのだけど、日本で同じ言葉を発す場合のニュアンスとけっこう違っているのかな、と。
日本で言うと、例えば演歌に対して
「肉体労働のオヤジが聴くようなもの」
「水商売の女が聴くようなヤツ」
っていう見方をするようなのと似てるかな・・・。
とすると、別にアメリカ特有でもないかもしれないけれども、ある種の差別意識と上から目線からのものである、とは言えそうだ。
アメリカには、Weird Al YankovicやThose Darn Accordions、Brave Comboなど、アコーディオンでロックやポップスを演奏することで発生するまぬけな感じを狙った音楽を作っているアーチストがいるが、それらはこうした「アメリカでのアコーディオンのイメージ」が前提にあってこそのものなのかもしれない。
彼らの音楽は笑えるのだけど、ときどき聴き手を突き放すような皮肉めいたイジワルさや、「ええ、ダサいですとも、それが何か?」みたいな開き直りや露悪的さを感じる。
で、「あら、あなた、笑ってますけど、どっちの立場で笑ってるんですか?」って最終的に突きつけるようなところがある。
同じ目線なのか?上から目線なのか?
さて、私はどっちだろうか。
Those Darn Accordions↓